私の徒然草

この書き留めは己を見つめ直す反面教師

サハラ砂漠 - 恐竜の発見 - 2014年11月モロッコ雑感(6)

ロッコのツアーに出かけたのは2014年の11月で、その 3 ~ 4 カ月前に学者グループがモロッコサハラ砂漠の西側で新しい恐竜の化石を発見した。

 

この地域はかつて海につながる川であり、これらの新しく発見された化石は恐らく水陸両棲の恐竜であり、このため、モロッコは現在さまざまなグループから世界的な注目を集めている。

 

最果ての地で、非常に興味深いことが起こっている。

 

この恐竜はナイル川から渡来したと考えられるため、この点については時機をみて調べてみたい。

サハラ砂漠 - 2014年11月モロッコ雑感(5)

私達は、サハラ砂漠のモロッコ側への唯一の入り口の町であるシェルぎからサハラ砂漠へ。

でこぼこの道を四輪で2時間ほど走ると、ようやく広大な荒れた砂利の平原にたどり着く。

さらに 1 時間ほど走ると、息をのむようなサハラ砂漠の始まりに到着する。

どこまでも続くサーモン ピンクの砂丘。見渡す限り広がる砂の丘、中には高さ15フィートもあるものもある。

 

サハラは唯の果てしない砂の平原ではなく、激しい風のために、その形は刻々と変化している。

 

経験豊富なガイドがいなければ、砂の中に迷い込んでしまうだろう。

十数頭のラクダが待っていて、私はキャラバンの少年たちに助けられながら、一番小さなラクダに乗り込む。

ラクダが砂の中に入っていく時はとても静かで、ラクダの足元で砂がキュッキュッと音を立てるだけだ。

ラクダの列は砂の稜線に沿ってゆっくりと進み、夕方のベストスポットに到着する。

30分ほどラクダに揺られた後、ラクダを降り、尾根まで10メートルほど登る。

 

紫色の雲が散らばる壮大で果てしない空の下、砂漠化した広大な平原が無限に広がっている。

この比類なき風景に、私は全く無力感に襲われる。

夕方7時頃から夕日が沈むというので、カメラを高速シャッターにセットし、夕日を撮り始める。

 

やがて、空の色が鮮やかなオレンジ色に変わり始め、水平線へと流れていく。

 

突然、まばゆいばかりの白い雲が空一面に飛び交い、雲の模様が変化していくのが目に飛び込んでくる。

 

オレンジ、黄色、淡いベージュに縁取られた太陽の周りの轟く炎が鮮やかで、そこから放射状に伸びる金色の雲が空全体を覆っている。

 

夕日を撮影していると、一瞬、時空を超えた別世界にいるような感覚になる。

完全に日が沈んだ後、あまりの感激に言葉を失ってしまった。

どんな言葉も、私の写真以上のものは描けない。

 

私が撮ったこれらの写真は、私の人生の視座を変えてくれた。

 

サハラ砂漠の中で目覚めた私は、人生について何も知らないことに気づかされた。

 

広大な砂漠を背景に、私は自然の恐ろしさを痛感している。

 

この瞬間から、私は人生の新たな一歩を踏み出すことになる。

 

間違いなく、私は、砂漠で生まれ変わった。

ヴォリビリス遺跡 - 2014年11月モロッコ雑感(4)

ヴォルビリスは、紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけてモロッコに建設された17のローマ植民地のうち最大の規模で、 ユネスコ世界遺産の一つでもある。

 

遺跡は海辺やフェズ川の河口から遠く離れた場所に位置する。

 

当時、これは西ローマ地中海帝国の非常に重要な場所だったと考えられる。

 

人口は70万人を超え、主に奴隷であった。

 

構築物だけでなく、未だに鮮やかな色彩とデザインが此処にある。

 

都市計画は石畳に沿って作られ、かまどの後が残る区角、オリーブを搾ったであろう場所、公衆トイレと当時の生活がそのまま見受けられる。

 

緩やかな坂を登った所にパリの凱旋門にコピーされたヴォルビリスの凱旋門が荘厳な姿に留めている。



 


残念ながら、1956 年にフランスの植民地統治が終わり、モロッコを離れた時点で、貴重な発掘調査は終了した。

 

この遺跡の規模と価値は、ギリシャパンテオンやイタリアのポンペイとは比較にならず、 ヴォルビリスの土に小雨が降り注ぐ中、過去のすすり泣きが聞こえ、まるですべてがまだ存在しているような感じに襲われる。

ラバトへの道 - 2014年11月モロッコ雑感(3)

1912年から1956年までのフランス保護領時代の首都ラバトに向かう途中、私たちはカサブランカの南部を通過した。

 

そこは大規模なスラム街で、土で出来た壁に四角い穴が1つだけある箱が果てしなく並んでいた。

明りも水もなく、入り口さえ見えない。

これらはモロッコでは政府が提供した住居だ。

 

私たちの想像を絶する光景。南アフリカケープタウンのスラムはこれに比べると天国だ。水も電気も引かれている。

 

バスがどこまでも続く貧しさの果てなき場所を通り過ぎていく。

 

人口の半分は農奴制の農民で、麦類が主な産物。

 

ロッコはヨーロッパより南に位置するため、オリーブ、ナツメヤシなどの野菜と果物が早く実るので殆どヨーロッパに輸出。

 

バラの産出量は世界一とか。これも殆どが西欧に向う。オリーブオイルのリファイン、メタルのリサイクルが主産業。

 

土地所有者は、75%がフランス人または特別階級の利権を持つ人々で、収穫の配分もその比率である。残りの 25% が農奴に廻る。

カサブランカ - 2014年11月モロッコ雑感(2)

朝 5 時にカサブランカ国際空港に到着。

外を見ると土砂降りだ。

 

旧式の移動梯子が取り付けられ大雨の中一段、一段降りて小型の移動バスに乗り込む。荷物が一時間以上出てこない。

一週間ほど前から空港職員のストライキだそうで、何時スーツケースが出てくるか分からない。

 

何というスタートだろうか。観光が主要産業の一つであるモロッコの玄関口で、これでは先が思いやられる。来年はアフリカカップが行われるのに。

 

2015年にはアフリカカップが開催が予定されている。南部のヨハネスブルグとともに、モロッコ北アフリカから最初の参加となる。

 

ヨハネスブルグ空港に着いた時も似たような経験をした記憶がある。

 

飛行機にベルトコンベアが付いていなくて、荷物がタイムリーに出てくると、飛行機からターミナルまで、豪華な荷物を鎖の様に一つ一つ人の手によって運ばれる。これは典型的な南アフリカのシーンで、失業対策の一環だと説明を受けた。

 

近代的な高能率のハイテクとアフリカの労働力、富と貧困の極限。

 

このような極端なコントラストがここアフリカの現状だ。

JFK - 2014年11月モロッコ雑感 (1)

いよいよモロッコに向かう。

4:20pm、NY , 発。JFK  のエアーフランスのラウンジで出発を待つ。

 

さすがエアーフランスのラウンジだけあってフランス 語が飛び交い、アメリカの航空会社のラウンジと違い、パソコン やiPadを使っている人を見ない。

 

カルチャーの違いかワインを飲みながらオードブルをつまむ。

 

音楽もなく静かだ。時々、皿が触れる音ぐらいでJFKに居る気がしない。

 

男も女も格好良い。圧倒的に服装は黒が多く、たまにオレンジのパンツ、ジーンズは殆んど見ない。変なスニーカーも見かけない。

 

ジーンズでも仕立てが良く、素足に革靴をはいている。私も赤いECOを履いてきて良かった。

 

ロッコに着いてもう一度案内書を読みなおしてみる。

 

随分、読み落としがありやはり疲れていたのだろう、目が届いていない。

 

今後は違ったパターンでの生活を始めよう。

 

お洒落して格好良く生きていこう。

 

エクササイズも予定どうりやろう。身体が鈍り体重 がふえて心身ともに弛緩している。一体何を本当にやりたいのか?

 

いよいよ、機内に入る。

ここはヨーロッパだ。フランス語が飛び交い、アメリカの飛行機の機内とは一味も二味も違う。

 

メニューも選択肢が豊富だ。今から食事が出る、味はどんなだろう。

 

一昔前の良き時代の機内食を思い出す。懐かしい思い出が 甦る。

 

すぐに朝食が出され、クロワッサン、コーヒー、フルーツ、ヨーグルトなど。食器、シルバーウェア、そして何よりも、焼きたてのクロワッサンとコーヒーの香りが心地よい。

 

上質な良い旅が期待できそうだ。