私の徒然草

この書き留めは己を見つめ直す反面教師

ギリシャ アテネ - 2009年11月地中海にて (1)

シチリア島サルデーニャ島を抜けて、いよいよ地中海に入る。

 

食事はブッフェで朝食も超一流。

 

夜はフォーマルディナー。過半数の客がタキシード。旅慣れた組と初めての客がはっきり分かれていて面白い。


三階から五階まで吹き抜けのホール数箇所でバンドの演奏が明け方まで続き、踊りまくる様は不況?それは何だという感じ。

 

朝6時、カーテンをあける。暗闇の中に一面光の海を見る。

 

今迄の中で一番忙しく大きな港だ。

 

アテネに一番近い港、ピレウス港は活気に溢れ、経済の基盤が充実しているのが見受けられる。

 

エーゲ海に点在する三千の島を就航する数々の船、25%が観光からの収入との事。

 

アクロポリスに登る。

 

 

あの高地にあれだけの建造物を作り上げたアテネの人々。

 

そのリーダーに畏怖の念を覚える。

 

外部からの侵入により、破壊を受けても10年かけて修復した話にも時限の違う宇宙観をみる。

 

丘の上に立ち、眼前に広がるアテネ

 

 

裾野に点在する遺跡の数々、唯、息を呑む。

 

つい百年程前に第一次大戦で壊滅した町が英、仏によって復興をなしたそうだが、都市計画の素晴らしさと街並みの美しさには度肝を抜かれる。

 

ロシア、中国等の旅人を沢山みるのは彼の国の経済が良い事を感じる。

 

日本人は、二、三人見る程度で、欧米、スパニッシュ系が非常に多い。

リックスカフェ カサブランカ - 2014年11月モロッコ雑感(12)

ハイアットリージェンシーカサブランカから外に出て、地元のレストランでフェアウェルディナーを楽しむこととなった。

 

バスの中では、懐かしい映画「カサブランカ」の映像が流れている。

一瞬、画面の中に引き込まれ、白黒のシーンの一部になったような錯覚に落いる。バスの中の誰もが「ああ、そうだ、ここはカサブランカだ」と頷く。

 

土でできた曲がりくねった壁の中をしばらく走ると、突然、薄暗い光が見えた。

 

アラビア風の服装の男性とレストランに向う。

 

細い石段登り詰めた時、2階へ吹き抜けになったエントランスホールに足を踏み入れる。

 

部屋の隅にあるスクリーンでは、ここでも「カサブランカ」が流れている。

 

このレストランのオーナーは、かつて国連のモロッコ事務所に勤務していたキャシー・クリーガー夫人だ。

 

国連での任期が終わった時、彼女はカサブランカに留まり、映画「カサブランカ」の「リックスカフェ」のレプリカを開く事にした。

 

私達のグループは映画に思い出のある世代で、映画から丁寧に再現された雰囲気に身を任せた。

 

皆がその場、その時間の中にいるような錯覚に陥り、一瞬トランス状態になる。

 

ロッコでの2週間、何を食べたかは誰も正確に覚えていないが、デザートに出された食べ慣れた味ののチーズケーキの味が私達を現実に引き戻した。

 

コバルトブルーの光が部屋全体に反射し、サックスとピアノの音色が心地よく響く。

 

ハンフリー・ボガートが「Play it, again, Sam」と言うのが聞えた。

 

トランスサハラ貿易ルート - 2014年11月モロッコ雑感(11)

ロッコのフランス保護領 (1912 ~ 1956 年) の期間、フランスはアトラス山脈を越えてトランス サハラ ハイウェイを建設した。

 

完成までに17年の歳月を要し、 山に沿って村人たちは労働力と建設のための必需品を提供することを余儀なくされた。

 

かつては標高7,800 フィートの尾根を越えるのに 100 日以上かかったが、 今では車で 10 ~ 12 時間しかかからない。

 

古くは、南アフリカからマリ帝国トンブクトゥを経由してモロッコマラケシュに至る、サハラ横断貿易ルートとして知られる北アフリカへの道筋があった。

主にナツメヤシやココナツなどの木が道端に密生していた。

 

当時、交易で栄え、オアシスや情報発信の要所が数多くあり、 商人や学者も同様にこれらの地域に頻繁に訪れた。

 

また、アトラス山脈を越えてナイジェリアからエジプトに至るルートもあり、地中海とヨーロッパ大陸を結ぶ二大ルートとして、季節ごとの交易が行われていた。

 

 

これらのルートは、かつて世界の知的および経済の中心地であった帝国や首長国の興亡を目の当たりにした。

 

現在、これらのルートは、地政学と世界貿易の戦略的重要地点となっている。

マラケシュのスーク - 2014年11月モロッコ雑感(10)

Ⅰ. 混沌と秩序

Ⅱ. 迷路

 

Ⅲ. 3)    物売りの様々
地面、折りたたみテーブル。

それぞれが所狭しと両側に軒を重ねる店先に争うようにせせり出ている。

 

 

Ⅳ. 食堂
客は食べた、後の食器を店先にぶら下がって居る布切れで拭い序でに口元もぬぐ

 

Ⅴ. モロッコ織 
棉から糸を紡いで織りあげている土間の隣には美しく染められ仕上がった布地数えきれない数と種類が整然と並べられ人目を惹く。其の店先に二、三の女性が自分の織上げた布地を売りに並んでいる。

 

Ⅵ. 鋳掛屋 

仕上げの良い真鍮の鍋などを売っている

 

Ⅶ. 何でも屋 

駄菓子を売る店、すぐ隣は香辛料、人気なのかUSA洗剤、香水の調合販売はChanel であれJEAN PATOUなんでも目の前で調合しアルコールの量で香水、コロンに分かれる。16オンスで一流銘柄の香水はUS$80だったと記憶している。

 

Ⅷ. 皮屋 

極め付きはHermèsから特注されて居るなめし皮と同質で上品な色合い、裁断前の皮が軒先にぶら下がっている。Morocco のなめし皮技術は世界一でその苛酷な状況は北海でのカニ漁と並び称される。
FranceとMoroccoは未完成品の輸出入に関する特約が有り主要産業に成っている。

 

ユダヤ商人 - 2014年11月モロッコ雑感(9)

ロッコ北部のベルベル地域には、紀元1世紀には早くもユダヤ人居住区が形成された。

 

この地域の支配者の保護のもと、ユダヤ人とベルベル人の間に金融ネットワークとコミュニケーションシステムが維持された。

 

支配者とユダヤ人の関係は、円滑な貿易のための安全を保証するものだった。

 

アフリカ南部からサハラ砂漠を経由する一般的な商人は、商品の価値の5%を請求される。

 

その代わり、ユダヤ人は25%を差し出すので、塩、砂糖、金など特定の商品の独占が許された。

 

このような交易戦略により、ユダヤ人は他国よりも経済的に有利になり、今でも世界中のユダヤ人社会で血縁関係が重視され、継続されている。

 

 ユダヤ人は、マラケシュとフェズで共同体を作り、アラビア語で "塩 "を意味する "メラー "と呼ばれるセクションに定住した。

 

ユダヤ人は、独占的な貿易の優位性を生かして、自分たちの間に広く強いネットワークを築き、本来の発祥地であるエルサレムまで足を伸ばしたのである。

 

 

イヴ・サンローラン、ピエール・バルマン - 2014年11月モロッコ雑感(8)

ヨーロッパから数多くの人が過去、現在でもモロッコ に居を構えている。モロッコ の何が彼らを惹きつけたのか分からない。

 

イヴ・サンローランは当時、仏領だったアルジェリアで生まれている。

ファッションの世界で彼が残した数々の偉業の中でも晩年に彼がモロッコマラケシュの別荘をMusee Art Berbereに改修し世界、唯一無二のBerbereコレクションを作り上げた事はあまり知られていない。

 

竹林の中での静かなたたずまいと 対照的な建物の原色の世界には言葉を失う。

その庭に一歩足を踏み入れただけで次元を超えた感覚に襲われる。

彼独特の感性は北アフリカの血とパリのどんより重く沈んだ空気の中に漂う精神をくすぐって止まない独特な文化の重みを感じさせる。

建物の外側はどこまでも抜けるようなコバルトブルーと原色の黄色で装飾されており、博物館の中は年輪を刻んだ艶やかな木目を見せる板で静かにほの暗い明かりの中、数え切れない年月を得たであろう、恐らくはBerbereの日用雑貨、装飾品、衣装であったと思われる品々の精緻な創りと色合い、イヴ・サンローランが愉しみながら執拗に追い求めた色彩と造形の集大成が其処にある。大昔はこの地も緑生い茂るオアシスであった事が偲ばれ豊かな木々の小板が頬にふれ微かに漂う芳香が時を忘れさせる。    

 

 方やピエール・バルマンの別荘も此の地で趣のあるレストランとして粋人を集めている。

 

ロッコの常として高い塀をめぐらせた囲いの中に之もれもまた目を見張る竹林が生い茂り夾竹桃などが色を添え、蛍光灯であろうかほの暗い消え入りそうなコバルト色が辺りに沈んでいる。

 

給仕人は音も無く客の間を行き来しワイングラスに何かが触れる音しか聞こえない。時々、生ぬるい風が運んで来る香水の香りが艶やかな空間を創り出だしている。

 

塀の外はフェラーリとらくだが同じ路上を走り抜けている。この時空を越えた空間が人を魅了して止まないのだろう。

 



 

 

サハラ砂漠の化石 - 2014年11月モロッコ雑感(7)

西サハラの郊外に位置するエルフードは、主にヨーロッパに出荷され、「イタリアンマーブル」と呼ばれる最高品質の大理石を産出する小さな町である。

 

昔は原石である大理石を手作業でカットしていたが、現在は機械で薄い板にスライスし、やはり手作業で研磨しているため、大理石の板には三葉虫などの化石のような美しい姿が見られる。

 

この大理石の板は、世界中の愛好家に天文学的な値段で売られているのである。

 

しかし、職人たちの月給はわずか数十円で、埃っぽい場所で一日中不眠不休で働き続けている。